風邪→→肺炎とは・・(-_-;) [日記]
入院した病棟、岡本病院新病棟
以前撮った映像。
医学的には風邪と肺炎は異なるものらしい。只風邪をこじらせ体力が落ちると肺炎菌に感染しやすいと聞いた。かなり忙しくて風邪をこじらせたようだ、可成り高熱が一晩続いたので掛かり付けの医院に、前日の血液検査のCRPが8.93(基準範囲は0.30以下)。
取りあえずレントゲン、結果即病院に連絡そのまま病院へ直行、色々な検査の上入院、慎重を期して今日まで2週間治療、今日退院を許され帰宅、やれやれと気が落ち着いた。
金銭的に余裕がない私など、4人部屋で2週間を後半は暇をもてあます入院生活を送ったのだが、先生は徒然、看護士さん(嘗ての看護婦さん)皆さん良い方ばかりで、患者にとっては心休まる入院ではあった。同室の方の話や、お家族の様子などで、また談話スペース等での話などで、私なりに、今の社会における、最小社会単位である家族の壊れていく姿を見聞できた。
それが何か今、荒れている現在社会、社会生活に潜む原因の一端を見たような気がした。比較的融和な田舎町にも浸透しつつあるのを知らされた。具体的な話や気分の良かった話も次に続けます。
再度のリクエストを頂き・・・ [日記]
昨日、亡母のつまみ絵を載せて頂いたが、知人から、前のつまみ絵を捜すのが大変だからもう一度見せて頂きたいと、昨夜依頼された。お断りも出来ないので、再度のアップで申し訳ないがご容赦願いたい。
亡母が少しは気に入っていたと思われるのだが、気に入られた方は写真をコピーして頂いて結構。
丹波はまだ紅葉の兆しもないのだが [日記]
私の稽古場の入口に家内が額には入れてなかったが、亡母が生前作った『つまみ絵』がそれとなく飾ってあった。お弟子の方が私より先に気づいて、喜んでくれた。 (迂闊だよね)
亡くなって十一年になろうか、亡母のつまみ絵は多く観てきたが、この絵は初めて見る、あまり出来が良くなかったのか、何処かに了って置いたのだろう。蔦の紅葉のつまみ絵をアップさせて頂く。
以前に一度載せさせて頂いて好評を得たのを、書きながら思い出した、亡き母への思い出が募る。
アルバム捜しをしていたら・・・ [日記]
珍しいアルバムが見つかった。多分今、37歳以下の方は全く記録書物等見られない限りご存じないはずだ。人によっては40歳過ぎの人でもうろ覚えに記憶の何処かにあるかも知れないが。
昭和45年(1970)大阪で開かれた、日本万国博に、兵庫県代表民踊として、県の姉妹県であるワシントン州のスペッシャルデーに三百名を超える方々が出演し大好評を得て、県知事から出演者に贈られた記念アルバムだ。後ほど万博の色々な写真を貼り込んでいるが、頂いた写真は何故かモノクロ2枚だった。デカンショ踊りと、篠山の日の酒樽開きの写真を、ご存じない方にもとアップさせて頂く。
この大阪の万博には、打合せ、踊り、家族との見学に何度言った事やら、まだ若かったのし、太陽の塔の下大会場での300人を超す踊り子の稽古、演出構成には苦労したものだった。もうこの様な事は二度と出来ないだろう。 今気付いたのだが酒樽割の終わった後、旗の竿の後ろに私の顔がチョット覗いている。
びっくり!あわやと思ったが [日記]
始めて花を咲かせたラッパ草と・・ [日記]
今年私の稽古部屋の入り口にあるささやか過ぎる小庭にラッパ草が今年初めて二輪の花を咲かせた。多くの蕾を付けているので、清楚な白い花開くのを楽しみにしている。それに知人が持ってきて頂いた紫陽花を、店の蹲踞の横に飾らせて頂いた。豪華な花であれ、清楚な花であれ、野花であれいいものだよね。例の如く拙いものだがアップさせて頂く。
この町の市花ささゆりが花を咲かせ始めた。出来れば明日にでもアップさせて頂きたい。
身内がこんなに・・・・・・ [日記]
今日は、父の白寿の祝いに、遠くは高知から。子供の病気の為来られなかった、さいたまの孫と、風邪で来られなかった玄孫と両親達は仕方が無かったが、私の息子や孫の呼びかけで、駆けつけてくれた。やはり親父の人徳だろうなー
王地山公園ささやま荘で、ささやかな宴。一同それぞれの思い出や、近況に話の花を咲かせていた。又楽しい催しを考えているらしい。宴席の写真は遠慮させて頂いて、ささやま荘に集まって来る一族の写真をアップさせて頂く。
中央父と末の妹
元気で長生きして呉れている父のお陰で三十数人の(曾孫を含め)同族が集まる事ってそうそう無いだろうなぁ、と思う。(感謝)
元気で長生きって良いもんだよ [日記]
私の父親が白寿(九十九歳)を迎えた。勿論、寝たきりでもなく、認知症でもなく自分のことは殆どやっている。只耳がいやに遠いぐらいなもの、父親は一人っ子だったが私を含め四人の子がいる。だから孫は八人、曾孫が八人、玄孫が二人と比較的少ない方だ。昨今の少子化だと、曾孫、玄孫を見るご老人はもっと少なくなるか、無くなるかも。
明日その身内だけで、ささやかなお祝いの宴をもつ。その家族達に手渡す色紙を自分で書き上げていた。『祝 白寿』だった。
この年まで、元気で、生きられそうも無いと言うのが残念ながら私の実感だ。